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横浜発祥のビール産業は、19世紀の横浜の一人の起業家にさかのぼる。
天沼と呼ばれる清水の湧きでる北方で1870(明治3)年、米国人コープランドは、日本で初めて継続的にビールの醸造・販売を行った。
碑文
麒麟麦酒開源記念碑
安政五年徳川幕府が獨断専行して國を開くや歐米人續々として横濱に来りしが彼等は居留地と稱せらるゝ一區域の中に居住す天沼は此居留地に属し草斜に連り高木短樹其間を點綴し清泉滾々として崖下に湧き氣清く風軟かに一幅春園の畫の如し明治五年米人ダブリウ・コープランド此に工場を建設しスプリング・ヴァレー・ブリュワリーと稱して麦酒を醸造す是れ日本に於ける麦酒醸造の開源にして今日の麒麟麦酒株式會社の前身なりとす明治十八年後藤象次郎伯岩崎弥之助男増島六一郎博士名性澤榮一子益田孝男カークウッド、ブラバ、ベルツ、カールローデの諸君唱首となって同志を糾合しジャパン・ブリュワリー・コンパニーと稱する合資會社を起してスプリング・ヴァレー・ブリュワリーの事業を継承し始めて其醸造する麦酒に麒麟麦酒と命名す明治二十九年更に之を株式會社に改めゼ・ジャパン・ブリュワリー・コンパニー・リミテッドと命名し前年香港政廰に登録したる事業を日本政府に登録す明治四十年豊川良平近藤廣平男米井源治郎瓜生震田中常徳高木豊三高田正久草郷清四郎今村繁三磯野長蔵等の諸君主唱して麒麟麦酒株式會社を起しゼ・ジャパン・ブリュワリー・コンパニー・リミテツドの事業を継承して以来資本を増加して事業を擴大し天沼工場のみにても地域七千五百九十八坪に達せしが大正十二年の震災に遭ふて工場を鶴見に新築し之より更に事業を伸張し満州朝鮮にまで分工場を増設す其初居留外國人の需要に應ずるがために醸造せられたる麒鱗麦酒は其風味と香有により國民的飲料となりて全國に弥漫し外國品の輸入を防遏するのみならず却って外國に輸出せらるゝに至る始めて日本の土を踏む外國人等甕中の玉液を汲み盞内の金波を傾け圖らざりき日本またミュンヘンビールありガムブリナスの神は扶桑の地をも祝福するかと嘆賞するに至る麒麟麦酒の發達の跡を見るに一粒の種子が生長繁茂して亭ゝたる天の大樹となり朝暉を受けては立を掩ひタ陽を負ふては紅海を翳ふに至るが如し今麒麟麦酒株式會社が其發祥の地たる天沼に記念碑を建つるに曾ひ文を撰して其事を誌るす之を讀む者必らず麒麟麦酒株式會社發達の歴史は日本國勢開展の歴史と其軌を一にするを感ぜん
竹越與三郎撰 野本白雲書
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